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北添佶磨屋敷跡 【岩目地平野】

北添佶磨屋敷跡

北添佶磨肖像
北添佶磨屋敷跡 ≪村指定文化財≫

 維新の志士、北添佶磨(きたぞえ・きちま)は1833(天保4)
 年、岩目地村庄屋・北添与五郎の五男として生まれました。
 幼名は源五郎、元服して正佶(まさただ、佶磨は通称)と称
 しました。読書剣客を習い、17歳で庄屋の跡目を継ぎます(の
 ちに大内村[いの町大内]庄屋に転任)。
 1861(文久元)年、武市瑞山(半平太)を盟主とする土佐勤王
 党に加わります。そして妻と離別し、有馬温泉への療養を名
 目に京都へ。京都では諸国の有志と交わり時勢を視察した
 後、親交のあった坂本龍馬の海軍説に同調し、1863(文久3)
 年能勢達太郎・小松小太郎・安岡斧太郎らと蝦夷地探査の
 旅に出ます。その後能勢のともに東北諸藩の事情を探りな
 がら江戸に至り、最終的に京都に入ります。
 京都では雙樹院如雲を暗殺する事件を起こします。そこで藩
 の帰国命令が下りますが、それに背いて脱藩の身となり、
 [本山七郎]という変名を用いました。
 1864(元治元)年、三条小橋の池田屋に同志が集合し、壬生
 寺の焼打ち等の三策を決議して酒宴となります。池田屋には
 既に新選組の間諜・山崎丞が入り込んでおり、太刀や槍を隠
 して、木錠を内から開けておいたと云われています。
 そこに新選組が押し入り、階下へ様子を見に行った佶磨は、
 新選組隊長・近藤勇に斬られ斃れます。享年32歳。
 池田屋事件は、維新を遅らせたとも早めたとも言われます
 が、維新という大業の起爆剤になったことは確かであります。
 佶磨の屋敷跡には顕彰碑や歌碑が建てられ、その他にも
 国道33号沿いの旧農協前に記念碑が建立されています。



北添佶磨屋敷跡へのアクセス

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北添佶磨屋敷跡にある顕彰碑

北添佶磨屋敷跡にある歌碑

国道33号線沿い岩目地にある記念碑