Archives 思い出の学校 1

    幡多地域には、かつて多くの学校がありました。
    昭和53年度の高知県学校関係職員名簿によりますと、幡多郡の3市(中村、宿毛、土佐清水)、4町(大方、佐賀、大月、大正)、
   3村(三原、西土佐、十和)内に、小学校110校(分校6校含む)、中学校44校(小中併設を含む)、高校10校(分校3校含む)、
   特別支援学校1校の、計165校の学校がありました。
    平成元年度には、過疎化の影響もあり、小学校99校(分校なし)、中学校43校(小中併設を含む)、高等学校10校(分校3校含む)、
   特別支援学校1校の、計153校と12校減少しました。
    その後、少子化がさらに進み、平成30年度には、幡多郡の3市(四万十、宿毛、土佐清水)、3町(黒潮、大月、四万十町内の旧大正町
   と旧十和村)、1村(三原)内(市町村合併のため、市町村数が変化)に、小学校39校、中学校22校、高等学校8校(分校1校含む)、
   特別支援学校1校の、計70校になっていて、この40年で、半数以下に減少しています。
    郡内をまわり、休校・閉校になった学校を訪ねてみました。まだ校舎や体育館が残っている学校もありますが、他の施設として使用されて
   いるもの、跡地が残っているだけのものなど、各学校がその後たどってきた時間はさまざまです。
    地図や市町村史を調べ、土地の方にも伺って、小学校93校(小学校と中学校が併設されていた学校は小学校とカウントしています)、
   中学校22校、高校2校の計117校を巡ってみました。

    この 思い出の学校1 では、旧西土佐村、旧中村市の学校を訪ねています。
       旧大方町・旧佐賀町、三原村、旧大正町・旧十和村、旧窪川町は 思い出の学校2 へ、
       土佐清水市は     思い出の学校3 ヘ、
       宿毛市、大月町は    思い出の学校4 へどうぞ。

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旧西土佐村の小学校・中学校
 口屋内小学校・中学校

   
口屋内の集落から沈下橋を渡った
 ところにあります。
  明治7年に口屋内校舎として創立、
 西土佐小学校への再編統合は平成
 24年4月でした。
  中学校は昭和52年に西土佐中学
 校に再編統合されました。
  平成元年には、2学級で、8人の
 児童が学んでいました。
  現在は、地域の集会所として使わ
 れています。
  
 玖木小学校(跡地)

   
口屋内から黒尊川沿いに遡ること
 およそ8km、15分、現在は集会所
 として使われています。
  昭和44年に閉校になりました。
 奥屋内小学校・中学校

   
口屋内から黒尊川沿いにおよそ
 15km、25分、道路沿いの石段を
 登ったところにあります。校舎・校庭
 は整備が行き届いています。
  平成元年には、4学級で、32人の
 児童が学んでいました。
  中学校は昭和52年に西土佐中学
 校に再編統合されました。
  
 奥屋内小学校黒尊分校(跡地)

   
奥屋内小学校から、黒尊川沿い
 にさかのぼること、およそ10q、
 黒尊川の美しい渓流沿いに、跡地が
 残っています。

  
 津野川小学校・中学校

   
西土佐分校のすぐ隣にあります。
  西土佐小学校への再編統合は、
 平成24年4月でした。
  平成元年には、4学級で、43人の
 児童が学んでいました。
  中学校は昭和52年に西土佐中学
 校に再編統合されました。
 中半(なかば)小学校

   
美しい斜張橋(茅生大橋)のたも
 とにあり、現在は四万十楽舎として
 使われています。
  昭和53年には、3学級で、23人
 の児童が学んでいました。
 須崎小学校

   津野川から四万十川の支流目黒川
 を遡ります。道路の南、小高いところ
 に当時のままのたたずまいを残して
 います。地域の方の愛情が深いこと
 の表れです。
  創立は明治7年、西土佐小学校へ
 の再編統合は平成24年4月でした。
  平成元年には、
 3学級で、7人の児童が学んでいま
 した。  
  
 大宮小学校・中学校

   須崎小学校からさらに目黒川を遡
 ります。大規模に整備された圃場が
 広がる小高い場所にあります。
  休校後もきれいに整備されていて
 地域の方の愛情が感じられます。
  平成元年には、4学級で、45人の
 児童が学んでいました。
  中学校は昭和52年に西土佐中学
 校に再編統合されました。
  
 本村小学校 

   江川崎から国道381号線を北へ
 約5km、本村の集落にあります。
  瀟洒な建築で、子どもたちへの
 愛情が感じられる小学校です。
  体育館の柱には子どもたちが描
 いた絵が残っていました。
  明治8年に江川小学校として創立
 されました。西土佐小学校への再編
 統合は平成24年4月でした。
  平成元年には、4学級で、45人の
 児童が学んでいました。
   
 権谷(ごんだに)小学校

   本村小学校から江川川沿いに遡
 ること約4km。川をはさんで、校舎
 と校庭・体育館があります。
  記念碑には、明治12年創立と記さ
 れています。
  現在は権谷せせらぎ交流館として
 活用されています。

   平成元年には、3学級で、17人の
 児童が学んでいました。
  
 
 藤ノ川小学校・中学校

   橘から四万十川を渡って、藤ノ川
 川沿いに遡ること約10km、集落の
 高台にあります。かつては小中学校
 が併設されていて、左下の写真に
 写っている校門には小中学校の校
 名が刻まれています。
  中学校は昭和52年に西土佐中学
 校に再編統合されました。
  平成元年には、3学級で、24人の
 児童が学んでいました。
 
 下家地小学校

   西土佐分校から目黒川沿いに遡
 り、途中の薮ヶ市から松野川沿いに
 愛媛県の松野町に抜ける県道を、
 北へ約5km、松野川の左岸にあり
 ます。

   平成元年には、2学級で、14人
 の児童が学んでいました。
 
 西方小学校

   江川崎から、四万十川の支流の
 広見川沿いに西へ約5km、広見川
 の西岸にあります。すぐ隣を予土線
 が走っています。
  現在は住民の方が先生の西ヶ方
 大学として使用されています。
  六角形の時計台が印象的なかわ
 いい校舎です。
  創立は明治25年。西土佐小学校
 への再編統合は平成24年4月でし
 た。
   平成元年には、3学級で、23人
 の児童が学んでいました。
 
 川崎小学校(跡地)

   江川崎の町中、今は市営住宅と
 集会所になっています。
  昭和62年に現在の西土佐小学
 校の校地に移転しました。
  当時、グランドは中学校と共用だ
 ったそうです。
 江川崎中学校(跡地)

   広見川沿いの小高いところ、現在
 は保育所として使用されています。
  昭和52年4月に、旧西土佐村内
 の他の5つの中学校と統合され、
 西土佐中学校になりました。
旧中村市の小学校・中学校
 片魚小学校

   中村市街から約18km、住次郎
 から右へ県道を約3km、片魚中か
 ら片魚川沿いに約2km進むと左手
 にあります。
  創立は明治8年、平成元年には、
 2学級で、17人の児童が学んでい
 ました。
 
 常六小学校

   片魚中から後川沿いに約5km、
 左手にあります。
  創立は明治8年、平成元年には、
 3学級で、23人の児童が学んでい
 ました。
 
 蕨岡小学校伊才原分校(跡地)

   蕨岡から後川沿いに遡ること約
 5km。沢垂トンネルを抜けてすぐ
 の対岸(後川右岸)にあります。
  現在は公民館として使用されて
 いて、石碑、門柱、校庭から往時が
 しのばれます。
  校庭には、高感度地震観測器が
 設置されています(下段)。
  昭和50年に本校に統合されま
 した。
  中村市史によると、昭和44年ご
 ろには、25人の児童が学んでいた
 ようです。

   
 田野川小学校

   中村市街から北へ約5km。田園
 の中にあります。
  創立は明治9年、平成24年度末
 に休校となり、中村小学校に統合さ
 れました。
  平成元年には、4学級、39人の
 児童が学んでいました。
 
 八束小学校名鹿(なしし)分校
           (跡地)


   国道321号線を四万十川に沿っ
 て下り、間崎で左折し、県道をさら
 に下ると、名鹿の浜に。その先、山
 道にさしかかったところを右折して
 少し山を登った「いちえん農場」に、
 分校跡地があります。
  上段は校舎がかつて建っていた
 ところ、下段左は校庭跡、今は果樹
 園になっています。下段右は宿直
 室、当時の建物です。
  中村市史によると、昭和27年ご
 ろには、36人の児童が学んでいた
 ようです。
 勝間小学校・中学校

   国道441号線から、勝間の沈下橋
 を渡って右へ約1km、道路をはさん
 で校舎と校庭があります。
  校庭には、電子基準点が設置され
 ています(左下の写真)。
  創立は明治12年、鵜ノ江小学校と
 いう校名でした。
  平成元年には、3学級、20人の
 児童が学んでいました。
  中学校は昭和41年4月に、明星
 中学校と統合し、大川筋中学校とし
 て再出発、小学校は平成14年4月
 に川登小学校に統合されました。
 
 鴨川小学校・中学校

   中村市街から約15km、岩田川
 を遡った中鴨川の小高いところにあ
 ります。
  跡地は、鴨川ふれあいの館として
 活用されています。
  中村市史によると、昭和27年ごろ
 には、小学校で68人の児童が、
 中学校で35人の生徒が学んでいた
 ようです。
 竹屋敷小学校・中学校

   中村市街から約6kmの蕨岡を左
 に約10km、四万十川ウルトラマラ
 ソンのコースの途中にあります。
  平成元年には、
 小学校は3学級、20人の児童が、
 中学校は3学級、17人の生徒が
 学んでいました。
 片魚中学校

   中村市街から約18km、住次郎
 から右へ県道を約3km、後川に沿
 って遡ったところにあります。
  平成元年には、3学級で、27人の
 生徒が学んでいました。
  プールは後川を数百m下った、
 学校からは少し離れたところにあり
 ます。
 
 明星(みょうじょう)中学校
          (跡地)


   四万十川沿いの川登地区の北の
 谷あいに跡地が残っています。
  昭和41年4月に勝間中学校と統
 合し、大川筋中学校になりました。
  昭和36年度には、114人の生徒
 が学んでいたようです。
  今はゲートボール場として使用さ
 れています。
  下段の写真の石柱は、正門の門柱
 だったと思われます。