倫理部会は自主研修団体であり、独立した立場から自由かつ大胆にしかも意欲的・創造的な研修成果を発表する場として研究大会を実施しております。研究大会では、公開授業や日々の授業実践発表、調査研究の報告や研究発表が行われています。また、現場の教育課題に応える講師をお招きしての講演会も開催しております。
研究大会関連ファイル
40周年記念大会要綱 教える者の自由と独立
倫理部会 40年のあゆみ 〜研究会記録〜 高知県倫理社会研究会の思い出
倫理部会40周年記念講演パンフレット 高等学校教育研究会の躍進を祈って
倫理部会創設四十周年記念大会に寄せて 高知県高等学校倫理社会研究会結成趣意
倫理部会をふりかえって
巻 頭 言
〃高等学校教育研究会の躍進を祈って〃
昭和三十九年一月十日
高知県教育次長 井上源兵衛
私共教師が研修に努めなければならないことは、地方公務員法や教育公務員特例法の規定をまつまでもなく自明のことである。「教育は人に在る。」と言われるがこれは教育における教師の人格の占める重要性を指摘したもので素朴ではあるがしかし誰にも異存のはさみようのない主張であると思う。日々発展を止めない幼い人間の生命を培う教師という職業が自らの生命の進歩を要請されることは、蓋し宿命でもある。
国も県もこのような見地から教育研修を重視し、これを助長する施策を構じているが、何よりも大切なことは教師自らが自発的に研修することであろう。嘗つて米国教育調査団も言ったように、教育は自由の雰囲気においてこそ最も有効に結実する。強制でなく自らの創意にもとづいて研修体制がとられることは極めて望ましい。
この度高知県高等学校教育研究会が発足したがこの会は教師諸君の自主的な研究団体で不偏、不党、純粋に教育目的追求の団体であると承り非常に期待を寄せている。請われるままに文を草しこの会の今後の生長を心から祈ってやまない。

教える者の自由と独立
長崎 太郎
教える者自身の事について考えてみたい。教える方法とか、教える教材等々についての専門的研究は第二次的の問題である。教える者には、自由と独立とがなければならぬ。教育者は自己の頭を常に高くささえて居ることを誇と感ずる様でなければならぬ。教師は現職にある間は、平凡に勤務して居るなれば、生活に先づ不自由はないようだが、何か事が起ってそれがために職をやめねぱならぬことになると、忽ち明日からの生活を心配して、退職の不安と独立の不可能とをなげく様な事になる。これがために教員組合があるが、その裏をかえしてみると、各自の独立意識が薄弱になって居るともいえるであろう。
ペスタロツチも吉田松陰も、組合組織の無い時代に生きたが、たとえその組織があったとしてもそれに加入したかどうかはわからない。
今日、教員組合は当然に必要であり、又それが本来の目的に向って活動して居ることも亦当然の事といわねばならぬ。然し、組合を組織して居る教師自身へ自己の自由と独立とを保ってゆかないなれば、教える者としての影は薄い。教えられるものも亦強く自由と独立とを欲しく居るからである。
現代の日本の教育に欠けて居るものは、確固とした独立の教育ではあるまいか。私の眼には今日では教える者も、教えられる者も共に真の独立、真の自由を持って居ないかの様に映ずる。
大衆と共に行動し、一主張するのはよい。然しながら、大衆をバックとしてでなければ何一つ主張出来ないものは卑怯者であり、個人の尊厳を忘れた者である。自由と独立のない処には人生の美しい花は開かぬ。奴隷の床から自由独立の人格は生れぬ。自由と独立のない者には、将来を背負う青年の指導はまかされぬ。

明治以来、アメリカ合衆国の教育を外形に受けとって進んで来た日本は、第二次世界大戦に敗れてから、更にその国の教育の形式におしひしがれてしまった。言葉の表面だけおぽえて、実質を洞察出来ない者はあわれである。自由独立を何よりも重んずる国の指導のもとに、日本の教育は足腰を失い、頭から背骨まで失ってしまって、今教職ある者の多くは口に自由独立を唱えながら、不自由と追随との中に奴隷的に職場で働かされて居る。
ある宗教家は云う。〃自由と独立とは、どんな教育によって得られるかを考えてみよう。教育者にも信仰が大切である。基督は「何を食い、何を飲まんと思ひ煩ふな」。更に又、「空の鳥を見よ、鳥でさえも生きて居る。ましていわんや人間をや」と云われた。人間が真に人間らしく信じて行ってゆけば鳥などよりは遥かによく生きられる。それが自然の理であって信仰を持つ者は、信じて実行すればその体験を通してこの真理がよくわかる筈である。
人は信仰によって自由と独立とをかちとることが出来る〃と。
然しいざ実行となると物質に生きる人間には悲痛な決心がいる。教育者も亦人間である。私は、私の生涯にいつでも、何処でも辛じて保ち得た自由と独立とについて書いてみたい。中学校に通っていた頃のことである。私はロはぱったく、父にむかって精神的自由が物質的自由よりもはるかに大切であると云い放って、人間が物質にとらわれる事を軽蔑した。父はそれを聞きとがめた。父は学校教育は少しも無かったが、忽ち「物質的の独立のない処にどうして精神的の自由独立がありうるか」と私を一喝した。この父の一言は、私の頭上に加えられた生涯忘れることの出来ない鉄槌であった。
私が大学を卒業する頃、父は私に官吏になるようなら馬のはき棄てたわらじの裏でもなめよとまで極言した。
大学卒業後、日本郵船会社に入社した時、父はお前は会社の手代だから、前垂がけで行けぱよいといい張り、其の時祖母が気の毒がつて夏洋服を一着作つてくれると、毎月の月給からその代金を支払うように云いつけられた。
就職しても郷里を出る前又はこれから独立の生活を営むのだから、将来は一切金はやらぬ。とった月給が無けれぱ無いなりの生活に甘んじ、借金は一切してはならぬ。家賃は収入の凡そ一割、その他の費用はそれに準じてゆく様にと厳しく教えてくれた。
四十八才で亡くなつた母について思い出すのは私が小学生の頃、神祭に近所の友達の着て居るような染めたての紺の香のする新しい着物を着せてほしいと母にねだつた時、「たとい洗ってはげた紺の着物でも清潔なものを着せてあります。あなたの着物を笑われたら私の恥であなたの恥ではありません。私は子供に他人に恥かしい様なものは着せてないはずです。」と叱られたことである。
私は父母によって教えられたことを妻帯して後は夫婦で守り、五人の子供にも実生活を通してこの趣旨を徹底させた。
こんな次第で世に出て後は人から何と云われようと、衣食住の生活費を合理的に出来るだけきりつめ、常に最低の物質的生活に甘んじ、親からのものは一切あてにしなかった。 
それに、私は生涯どの地位にあっても人並の給料をようもらわなかった。それでも何とか辛棒してやって来た。
家族もろとも二十人近い人々を一家にひきうけて一諸に暮らして居た終戦直前の生活など今思ってもぞっとする。忍耐も相当して来たつもりだがそれでも私は任地の至る処で上長とけんかをした。
校長とも組長とも、陸軍とも、文部省とも、進駐軍とも、市長とも正しいと信ずることを主張して争った。思えば闘争の一生であったが、私はいつも「これだけ働くならどこえ行ったって、この位の月給はもらえる」とよく亡妻に話した。妻も私が切羽詰った時は「いつでもおやめなさい。」と云ってくれた。無学の父母が身を以て教えてくれた教育が私に一生涯独立と自由とを与えてくれた。
私は今日も、私自身の物質的生活を最低限に切りさげて最大限の自由と独立とを享受し、精神生活を豊富にして余世を終るように努めて居る。
そして五人の子供には最小限の生活費で生きぬき、他人の二倍以上働いて、正しいと信ずることは遠慮なく主張せよ。自由と独立とは常に汝の頭上にある。」と励ましてやまぬ。最近日本は開放経済には入ったが、商社は概して自己資本に乏しく、そのために国際競争場裡に於て有利な地位に立つことが仲々困難であると聞く。個人の経済にあっても、教育にたずさわる者は、特に自らの物的生活を省みて、自ら之を律し、自由独立の精神を堅持してその任に当る事が出来る様に切望してやまぬ。
六四・四・二七