室戸市教育委員会

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室戸の漁業

掲載日:2014年07月18日

捕鯨関係

勢子船

浮津西町に浜での鯨の解体の様子

 室津港でおこなわれている鯨船競艇大会の様子

捕鯨砲

突き取り式捕鯨法

鯨組

クジラの進化(メソニックス類)

クジラの進化(パキセタス)

クジラの進化(ドルドン)

クジラの進化(エンティオケタス)

クジラの進化(スクワロドン)

室戸岬で見られるクジラ(マッコウクジラ、ハンドウイルカ)

室戸岬で見られるクジラ(イワシクジラ、オキゴンドウ)

室戸岬で見られるクジラ

勢子船
勢子船

鯨とり
 室戸は津呂組と、浮津組の二つの鯨組があり、江戸時代のはじめから明治の終わり頃まで網と銛で鯨を捕っていました。鯨船には勢子船、網船、もっそう船があり全部で30そうの船で漁師達が力を合わせて鯨を捕りました。鯨網に追い込んで何本もの銛を打って弱らせ、船にくくりつけてから剣でとどめをさしました。
1967年(明治40)年頃より汽船で鯨を追いかけて銃でうってとるようにかわってから、鯨はしだいに室戸の沖に来なくなりました。室戸の漁師達は、その後遠く南氷洋まで鯨を捕りに行くようになりました。しかし1988年IWC(国際捕鯨委員会)が鯨を捕ることを禁止したことで、室戸捕鯨の歴史は終わりとなりました。

 鯨を網代に追い込んだり、銛を投げて仕留める軽快な船であった鯨の動きに即応する必要上、快速、かつ回転の自由さが要求されるから船首も鋭く胴長である。勢子船のうち一番船または沖配船といい、船体を白く塗っていた。捕鯨の総指揮者が乗っていた。赤船は同様、赤色に塗り副指揮者となる者が乗る。その他の勢子船は外板に鯨油に顔料を溶かした塗料でそれぞれに乱れ菊、水仙に八橋、菱鶴に半菊というような模様が描かれ、船に応じた役目を持っていた。(室戸市史 下巻)

捕鯨砲
 この漁法は、鯨を見つけると、捕鯨砲で銛を発射して鯨に打ち込み、銛についている網を船に引き寄せてとる方法です。ノルウェーで発明されたので、ノルウェー式捕鯨といいます。これまでの捕鯨鯨は銃殺捕鯨にはまったくたちうちできませんでした。その結果、室戸でも1907年(明治40年)に銃殺捕鯨が取り入れられ、室戸と奈半利には3つの捕鯨会社がつくられました。
 浮津の浜(現在の室戸中学校付近)には、捕鯨会社の事務所や納屋場(鯨の解体をし、油をとったり塩づけしたりするところ)がならんで、室戸はたいへんにぎわいました。

突き取り式捕鯨法
 土佐での捕鯨の歴史は、1624年(寛永元年)頃、室戸岬町津呂の大庄屋、多田五郎右衛門という人が、土佐藩の許可を得て13隻の鯨船を作り、鯨組を組織したことに始まるといわれています。この頃の捕鯨は「突き取り式捕鯨式」という方法で十数隻の船団で鯨を追いかけ、銛で突き取るというきわめて原始的なものでした。しかしこの方法では大きな鯨が取れないことや、よほど鯨が沿岸に近づいてこないと十分な成果が得られないこと、また鯨が沈んで取れないというロスも多かったようです。一時は200人の漁師を抱えるほど大漁が続いていましたが、やがて鯨の来遊が少なくなって不漁となり、寛永18年(1641年)捕鯨は中止となりました。

鯨組
 「鯨組」は、当時、捕鯨会社で、その組織体を鯨組と称していました。いわゆる捕鯨に関わる漁業集団です。船の乗組員を中心とする。漁労部門、陸から鯨を見張る山見番、魚切り職人などの解体部門、造船、細造り、樽職、鍛冶職などの部門を持ち、300人以上の社員を抱える大企業でもありました。
 この鯨組は当初、土佐藩の水軍(海軍)の役目を担っていたといわれますが、網取り式捕鯨の時代には、「津呂組」「浮津組」が結成されました。

クジラの進化
 今から、約4億5000年前、古生代という時代に海で暮らしていた生物が長い年月を経て、両性類、ハ虫類と進化していき陸上へと進出していきました。そして中生代中期から後期の間に原始的な哺乳類が現れました。
 今から約5000万年ほど前、テーチス海の水辺で暮らしていた陸上哺乳類メソニックス類からクジラは進化したと考えられています。そして海で暮らすようになったクジラの祖先は進化を続けていく中で前足はひれとなり、後ろ足は見えなくなっていき、また尾部は尾びれとなり体は海で生活しやすいように流線型に変化していき、そして現在のクジラへ進化していきました。

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