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室戸の漁業

掲載日:2014年07月18日

室戸の漁業の歴史

室戸の漁業

室戸の漁業

現在の津呂港

現在の室津港

室戸の漁業
室戸の漁業

室戸市史 上巻より

漁業の発達
 藩政に入った頃は、室戸には漁業と漁業集落はまだ成長を見せていない。甲浦や高知浦戸湾周辺集落、須崎湾、足摺西岸集落など天然の港湾、波浪静かな好漁場をもつ地域に比べ、この地域に漁業が発達し漁業集落が成立するためには、人工の港が作られることが必要であった。したがってこの地域に漁業が盛んになってくるのは、1624〜津呂で突取捕鯨が始まり次いで津呂、室津両港が修築されたころからと考えるのが至当である。港がつくられ、捕鯨が始まり、漁労技術が伝えられるとともに次第に室戸の漁業と漁村は発達してきた。

藩政時代の室戸の漁業
 藩政時代の室戸の漁業は約600人の漁民集団であった。規模も経営組織も他に卓越した捕鯨業が根幹をなし、したがって他の小漁業は土佐の他の地域などに比べると遅れていた。捕鯨が沿岸の漁場を独占的に利用したこと、漁業中心地の室戸、津呂の漁民が捕鯨を主とし他の漁業には副次的に従事したことがその原因となっている。
 地曳き網・・主としてイワシをとる網で江戸時代全国に広まり砂浜の至るところで行われた。室戸でも佐喜浜・元、吉良川、羽根と砂浜のある浦ではすべて引かれており、これが砂浜の漁業の根幹として長く続いた。

明治時代の室戸の漁業
 明治維新を経て日本は急速に近代化の道を歩むが、漁業と漁村は急激な変化を見せない。室戸でも藩政から続く沿岸の諸漁業は明治期に引き継がれ次第に衰えていく。(室戸の漁業においては次のような変化が見られた)
@捕鯨業において明治末期銃殺捕鯨が出現し280年続いた旧式捕鯨が消滅し、漁業の中心地である津呂、浮津、室津が大きく変わった。
A定置網(大敷網)が敷かれはじめ、多くの網漁業が衰えはじめた。
B明治末、漁船の動力化が始まり、漁場が沿岸から沖合へと広がるきざしがあらわれた。
C漁業制度が整えられ、漁業組合が設立され、漁業権がこれに与えられた。

大正・昭和前期の室戸の漁業
 明治末期から室戸の漁業も大きく変わっていく。藩政から明治にかけて沿岸にはさまざまな網漁業が存在した。しかし明治末期、あたらしい大敷網が次々と室戸岬東岸を中心に敷かれることによって、これらの古い網漁業は衰えていった。
 芸東沿岸に敷かれた大敷網は資本・技術ともに集落外に求めて操業していたが、大正期に土佐式落網という極めてすぐれた網を地元で開発したことを契機として、その後進性を脱し県下だけでなく全国的にもブリ定置網の先進地となった。

戦後の室戸の漁業
 戦争は室戸の漁業に壊滅的な打撃を与えた。基幹漁業は漁船をほとんど失った。大敷網も資材不足で腐朽寸前の網を補修して、ようやく操業できるありさまであった。しかし復興への歩みが始まり、魚は近海でよくとれた。津呂の残存マグロ船はわずか4、5時間走って、一日たらずで満船となる状態であったという。ブリも大敷網によく入った。

高度成長期の室戸の漁業
 昭和41年室戸市の水揚げ高は約90億円で市所得の57%を占め、県漁獲高の45%に達し、名実ともに水産都市となった。

現在の室戸の漁業
 室戸市の漁業は昭和40年代末から深刻な危機に遭遇した。48年におこった第1次石油ショックは遠洋漁業に大きな打撃を与えた。それに続く200カイリ問題は世界の海せましと発展していたマグロ漁業の経営に重大な影響を及ぼし、倒産、減船が相次いだのである。

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