校歌由来記

 西高校の正門を入った所に築山がある。ここは創立のころ、海南島の愛称で呼ばれていた所だ。この築山に一つの碑が建っている。碑文には溝渕知事の筆になる。

わが友よ
  われら学ばん
  われら鍛えん
  われら睦まん  の文字が書かれている。

 高知西高校は高知学区の高校生急増対策の一環として、昭和32年3月、仮称高知東高校として設立が決定され、4月に県立中央病院のある北新町の仮校舎で先生と450名の生徒で呱々の声をあげた。5月に入って学校の敷地が大津駅北側に決定したと伝えられると、父母、職員生徒の猛反対運動がおこり、ようやく12月になって現在の鴨部、旧郡是製糸跡に決定をみたのである。
 開校年の5月に、東高校の教育方針が決められた。小松生幹初代校長は、新設校の悪条件を克服するためには、人の和が最も大切であると考え、「熱心に勉強しよう」「身体を鍛錬しよう」の次に「仲良くしよう」を加えることにしたのである。

 6月24日に制服が制定され、7月8日に蛍雪の校章が決定した。然し校歌の制定は急には進まなかった。
 校歌には、所在近くの山や川が歌詞の中にうたいこまれることが多い。だから校地も校名も決定していなかった当時としては、校歌の制定には時期的にも困難があった。

 校地が決まると、校舎の整備が急ピッチで進められた。然り新しい校舎が建ったのではなく、郡是製糸の男女工員の寄宿舎が改造されて、教室として使用されることになった。職員室は浴場を改造して作られ、校庭には県下一といわれた50メートルの大煙突が残されていた。このような状態で33年6月27日28日の2日間にわたって移動が行われ、校地の校名も文字通り東から西に移り7月10日、校名が正式に高知西高校と決定されたのである。

 これに引続いて校歌の歌詞が、父兄、職員、生徒から募集されることになった。9月3日、スクールカラーがライトブルー(秋の碧空の色)と決定した。
年が改まって34年9月、校歌作成委員会は、応募作品の中から6編を選び、校歌の候補として提案した。11月25日、生物の先生であり、音楽関係者として校歌作成委員会に加わっていた宮田淳夫先生の作詞が最終的な選考の結果、歌詞として決定された。曲も同様にして当時3年生だった住友弘一君の曲が選ばれ、翌年2月16日、第1回の卒業式を前にして校庭で発表会が行われたのである。住友君は卒業後、高知大学に進み、高知学芸高校で音楽の教鞭をとっている。 

1. あけぼのの   光あらた
   道きはむ    灯たれと
   照りはゆる   学びの窓に
   書ときて    真理をたづね
   わが友よ    われら学ばん

2. 清らなる    鏡の水に
   湧きいづる   生命をくみて
   伸びゆかん   たくましき腕
   世に立たん   その日のために
   わが友よ    われら鍛えん

3. 緑なす     山脈はるか
   白雲の     ゆくへにのせて
   大いなる    われらが希望
   幸福と     平和の世にと
   わが友よ    われら睦まん  

校歌の多くは、詩人や作曲家によって作られている場合が多い。作詞が学校関係者ある場合でも、作曲は専門家に依頼するのが多いのではあるまいか。西高校がなぜに作詞作曲とも職員生徒の手によったかは、西高校の生い立ちとも深い関係があるように思う。西高校は施設、設備の面で極めて恵まれない状態の中から発足した。当時の職員生徒の一致した気持ちとして、自分たちのことは自分たちでやらなければという気持ちがみなぎっていた。いつとはなしに「パイオニア・スピリット」(開拓者精神)が合言葉となっていた。こうした気風の中で、校歌が職員生徒自らの手によって作り出されたことはまた、当時のことであった。
 小松生幹校長は、1月、朝礼に於いて全校生徒を前にして、西高校の校歌は、第1節で光を、第2節で水を、第3節で土をうたっている。光、水、土は生きとして生けるものをはぐくむもとになるものと言われ、3代校長の井上源兵衛校長は、知情意の3つをうたっていると話された。この効果は簡明に、自然の恵みと、教育の指向すべき方向を語りかけているといえよう。

 ここで作詞者の宮田先生について少し触れておきたい。
先生は付属小から南海中学に進み、陸軍幼年学校で敗戦を迎え。旧制高知高校に入学、同校卒業後高知大学に編入されて卒業、教職につかれたものである。東高校創立とともに生物の先生として赴任された。専門の生物学はもとより、音楽、視聴覚、その他多方面に卓越した才能を発揮された。校歌の作詞においてその一端が露呈されたといえよう。西高在職10年、42年の春、県教育センターの研修主事として転出された。惜しい事にその直後不治の病におかされ、闘病のかいなく、奥さんと3歳の卓樹君を残して39歳の若さで前途を期待されながら他界されたのである。昭和42年11月12日 日曜日 午後7時40分、奇しくも思いで多い東高校跡の県立中央病院で永い眠りにつかれたのである。

 創立10年を経て西高校の教育方針は現在のものに改められ、43年12月にはハードスピリットの標語も生まれた。翌44年度の卒業生は卒業記念にと海南島と呼ばれた築山に前述の校碑を残して巣立っていった。この碑の除幕式は45年7月17日に行われた。幕を除いたのは小学1年生の宮田卓樹くんであった。
 創立以来17年、星移り人変わり、西高校も大きな変貌を遂げた。然し創立の時の「熱心に勉強しよう」「身体を鍛錬しよう」「仲よくしよう」の3つの教育方針は、将来にわたって受け継がれてゆくことであろう。何故ならば、この3つの教育方針は、いつまでも校歌の中に生き続けているからである。


           西村 俊彦(高知西高等学校 教頭  昭和33年~48年 在職)

TOP