あがわ村の文化歴史

大崎玄蕃と武田勝頼にまつわる昔話と、落人に関する話
   土佐武田氏の物語

☆天正10年信長の軍に討負けた武田勝頼は、上野国利根郡の山分大谷と言う所に忍び諸国を廻り、土佐の
    香宗我部家を手頼りに土佐の国へ入り立川峯際空石に、又植田村西屋敷に居し、又大谷村に移り楠目大法
    寺に移住し居、屋敷の旧跡大法寺に在り、その際に俗家の娘に懐胎させ・・・男子出生、後の證の為母に金
     の茶碗金の笄をあたえ置くと在り(山崎家所蔵の系図と武田家系図から一部確認)。・・・・・・・・・・・・・・・・

信仲・・・ 勝頼の兄、葛山三郎也山助娘母ハ○○稱シ○大槻言公仲公女也 ・・・・・・・・・法定院殿常雲院山大居士
    大崎下名大崎長門守信安ト云元和四年戌午七月8日七十七卒ス(1618) 母法名明観院寂常○○夏廣尼大姉
   (高知県地名の中に大崎の城山に大崎城跡あり・南路志には城主大崎長門とある)
☆香宗我部家は元々武田氏の家系で 、四代目武田信義の子、忠頼(一条次郎)は、  源頼朝に殺されるが、
    その子秋道を家臣中原秋家が補佐し、共に土佐に入る(建久四年1193)、秋道は秋家(香長平野の東部
    我・深淵現野市)の地頭職を相伝、中原は地名を取って香宗我部家を名乗る(香宗城・現野市)、秋家は山田に移り山田氏の祖となる。                                                     
☆写真の説明・
上手に八幡宮があり、手前が小森、頂上は屋敷跡を形成、砦ではなかったか?、

右手国道の下は古戦場で首切り場とも伝えられる、大崎ヘの東からの入り口となっている。 古戦場から右手は葛原と云い、大崎長門の住まい葛山(原)の屋敷が有ったのではないか?  *大崎長門は信玄の三男で信仲(葛山三郎)と言い、大崎玄蕃は四男で勝頼(諏訪四郎)と言う。

岡林家代々、正八幡宮神官の受け継いだ系図の解説    
系図から、天正14年に川井八幡宮建立と有ります、地域の方は通称大崎八幡宮と呼んでいますが、登記 簿には「川井神社」と成っており記録上出てこないかも知れません。又、八幡宮の宝物は代々の神官しか目にすることが出来ず、世に出ることは無かった。
武田剣花菱家紋手鏡1面   ・正八幡宮御本尊御神体10体
平成16年12月10日
吾川村保護文化財に指定される。
系図部分説明

土佐国吾川郡片岡郷大崎村川井鎮座
正八幡宮天正十四年丁亥六月十五日
 願主 大崎玄蕃頭源勝頼建立
     神主 岡林甲斐守源勝貞
右八幡宮御神体十二尊木像安置之
   神鏡 一面
   幣  一本
   奉納有之
       

大崎の系図と、山崎氏が写本した武田家の系図から、  
勝頼・・・
母諏訪形部大輔頼茂の女也軍功の事略す天正十年信長家軍に討上野国利根郡大谷退左民伝
安居村内樫山移り六月 同郡片岡郷大崎の 寺村に天正十三年川井土井二月八日着住居 大崎玄蕃慰と伝慶長十四年巳   八月十五日 六十四才にて逝伝 成福院殿榮秋道勝大居士
大崎川井土井屋敷屋敷葬   (1610)
天正十三年流光山建立
同  十四年川井八幡宮建立 (1586)
天文九庚子生
信仲・・・
葛山三郎也山助娘母ハ○○稱シ○大槻言公仲公女也
・・・・・・・・・法定院殿常雲院山大居士
大崎下名大崎長門守信安ト云元和四年戌午七月8日七十七卒ス  (1618)
母法名明観院寂常・・夏廣尼大姉
(高知県地名の中に大崎の城山に大崎城跡あり
・南路志には城主大崎長門とある)
*系図の最後に戒名 十二名の名前
新羅三郎   義光公  同 御内室
相模守     義業公
治高兵衛   義定公
武田形部三郎義清公  義清 御内室
四郎兵衛   義仲公
逸見黒源太 清光公
武田形部三郎師光公  同 御内室
武田太郎   信義公
加義治郎   成光公
大崎八幡宮のご神体と考えられる
 
これらは、佐川町で出会った武田家系図
宝永四年1707年続いて昭和四年謹写された系図、上の系図を補完して読みとる事が出来る。左端は勝頼の欄
   
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