2018年1月アーカイブ

嶺北高校歴史探究部、今回は県東部、香美・香南市方面に行ってきました!
ここ高知県東部地域も、野中兼山の足跡が多く残された場所です。

まずは、その難工事で知られる物部川中流は山田堰へ。

 

山田堰は、香美市土佐山町神母ノ木から、西岸の同じく土佐山田町小田島にかけて、物部川の流れをせき止めて造られた農業用水と水運の取水堰です。この一帯はかつて暴れ川と呼ばれた物部川によって、度々洪水や渇水といった水害に悩まされてきました。

 

藩政初期、藩の財政基盤整備を目的として、寛永6年に着手されたこの灌漑事業は、実に完成まで26年もの歳月を要しました。その恩恵については言うまでもないとして、やはり、こうした難工事が土佐藩のいたる所で続くうちに、怨嗟の声をあげる人のあったことは事実でしょうし、後の失脚へ繋がったとの指摘もあります。


さて、続いて香南市は夜須町手結港へ、現在ここには道の駅夜須(ヤ・シィパーク)があり、可動橋がCMの題材に取り上げられるなど、注目を集めています。

手結港の可動橋

ここ手結には古くから港がありましたが、兼山が実権を握っていた当時、土砂の堆積によりその機能はほとんど失われていました。近くの夜須川から流入する土砂に加え、荒波により漂砂が流れ込み、港湾機能を消失させたのです。
兼山は、そんな手結港の再建に際し、海岸の岩礁地帯を掘削することを選択しました。こうして造られた現在の手結港の原型は、一般に日本最初の本格的な掘込港湾として知られています。他方、その維持にもやはり多大な労力が払われる事になりました。藩は、その後、5年に一度「港堀り」という制度を設け、堆積した土砂の浚渫を行っています。こうして現在に至るまで手結港は利用されてきたのです。

さて、そんな手結港は、昨年ひょんなことから話題になりました。
昨年1月、首相の施政方針演説の中で、土佐湾における「野中兼山とハマグリの話」が取り上げられたのです。

手結盆踊りにはこんな唄が残っています。

野中兼山良継は 土佐の城主の家臣なり

ある年江戸より手紙にて 土佐の海にはかつてなき

蛤貝という貝を みやげにせんと言いこしぬ

村人よろこび今日明日と 待つほどなく兼山は

蛤あまた船につみ 遠州灘や熊野うら

波風無事に立ち帰る 人々港にいでむかえ

とく蛤よと言いさわぐ 兼山ただちにさしずして

船に積みたる蛤を 残らず海に沈めけり……

兼山は、土産だと持ち帰った蛤を、みな海へと沈めてしまいます。
何事だと驚く人々に向けて、兼山はこう言い放ちます。

「これはここに将来生きる子や孫への土産である」と。

ご存知のように蛤は、土佐の名産となることはありませんでした。
しかし、昭和のはじめまではその恩恵を享受できたそうで、兼山の目的は無事果たされたのであります。

一行は、ヤ・シィパークの代表理事をお勤めになられる丸岡克典さんにお話を伺いました。


丸岡さんは可動橋の建設や、道の駅の魅力化などを通じて、夜須、手結の振興につとめておられます。
将来に渡ってこの地域が栄え続いてゆくようにと、
丸岡さんの思いもまた、当時兼山の抱いたそれと同じでありました。

柳田國男がこういう事を言っています。
「仮令一時代の国民が全数をこぞりて希望する事柄なりとも、必ずしもこれをもって直に国の政策と為すべからず。国家がその存立によりて代表し、且つ利益を防衛すべき人民は、現時に生存するもののみには非ず、後世万々年の間に出産すべき国民も、亦之と共に集合して国家を構成するものなればなり。」

目先の利益にとらわれず、将来のはらからに至るまでに思いを馳せ、決断する。
これは地域活性というものを考えるうえで、決して欠くべからざる考えでありましょう。

歴史というものを眺める視点についてもまた然りです。
歴史を眺めるとは、我々もまたその持続の中に身を置いているという事を知るに他なりません。

 

さて、最後はみなで列車にのって、和食駅へ。
運賃表を見て、和食200円か〜とつぶやいた生徒がいましたが、読みは“わじき”です。


(車窓から)


和食には、こんなインスタ映え?なスポットも

今回の歴探は、歴史を紡いでゆくこと、
その中に生まれる人工の美と、そして自然の美、その双方を感じることができたのではないでしょうか。

最後は、可動橋の前でパシャリ!