緊急情報


お知らせ

●学校行事を更新しました(2018/4/18) 

「今日の嶺高」以前の記事はこちらをご覧ください。

 

高知県立嶺北高等学校


高知県長岡郡本山町本山727

TEL 0887-76-2074
FAX 0887-76-3144
E‐mail:reihoku-h@kochinet.ed.jp

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平成30年6月16日(土)は嶺北高校体育館を会場にして創立70周年記念事業が行われます。6月17日(日)は嶺高祭が行われます。詳しくはチラシをご覧ください(クリックしていただきますとチラシが開きます)。

創立70周年記念事業チラシ(PDFファイル)

多数のご来校をお待ちしています。

2月21日、旅とダンスで世界をつなぐおしごとをされている、中込孝規さんを嶺北高校にお招きしました。

高校時代いじめられ、人間不信になった。英語が苦手で、人とコミュニケーションを取るのが下手だった。そんな彼が、安定を約束されていた大手教育会社の仕事を辞め、ずっと好きだったダンスを武器に、世界一周旅行に飛び出した。中込さんの話からは、自分に自信を持てない一人の青年の成長の過程が垣間見られました。

「やりたいことを口に出してみる。そして小さな一歩を踏み出してみる。」

そう語る中込さんに頷く生徒たち。後半は中込さんと一緒に楽しく踊りました。

講演の後、一人の生徒に訊きました。

どうだった?

「自分にとっては貴重だった。」

どんな意味で?

「人生規模で貴重でした。」 

嶺北高校歴史探究部、今回は県東部、香美・香南市方面に行ってきました!
ここ高知県東部地域も、野中兼山の足跡が多く残された場所です。

まずは、その難工事で知られる物部川中流は山田堰へ。

 

山田堰は、香美市土佐山町神母ノ木から、西岸の同じく土佐山田町小田島にかけて、物部川の流れをせき止めて造られた農業用水と水運の取水堰です。この一帯はかつて暴れ川と呼ばれた物部川によって、度々洪水や渇水といった水害に悩まされてきました。

 

藩政初期、藩の財政基盤整備を目的として、寛永6年に着手されたこの灌漑事業は、実に完成まで26年もの歳月を要しました。その恩恵については言うまでもないとして、やはり、こうした難工事が土佐藩のいたる所で続くうちに、怨嗟の声をあげる人のあったことは事実でしょうし、後の失脚へ繋がったとの指摘もあります。


さて、続いて香南市は夜須町手結港へ、現在ここには道の駅夜須(ヤ・シィパーク)があり、可動橋がCMの題材に取り上げられるなど、注目を集めています。

手結港の可動橋

ここ手結には古くから港がありましたが、兼山が実権を握っていた当時、土砂の堆積によりその機能はほとんど失われていました。近くの夜須川から流入する土砂に加え、荒波により漂砂が流れ込み、港湾機能を消失させたのです。
兼山は、そんな手結港の再建に際し、海岸の岩礁地帯を掘削することを選択しました。こうして造られた現在の手結港の原型は、一般に日本最初の本格的な掘込港湾として知られています。他方、その維持にもやはり多大な労力が払われる事になりました。藩は、その後、5年に一度「港堀り」という制度を設け、堆積した土砂の浚渫を行っています。こうして現在に至るまで手結港は利用されてきたのです。

さて、そんな手結港は、昨年ひょんなことから話題になりました。
昨年1月、首相の施政方針演説の中で、土佐湾における「野中兼山とハマグリの話」が取り上げられたのです。

手結盆踊りにはこんな唄が残っています。

野中兼山良継は 土佐の城主の家臣なり

ある年江戸より手紙にて 土佐の海にはかつてなき

蛤貝という貝を みやげにせんと言いこしぬ

村人よろこび今日明日と 待つほどなく兼山は

蛤あまた船につみ 遠州灘や熊野うら

波風無事に立ち帰る 人々港にいでむかえ

とく蛤よと言いさわぐ 兼山ただちにさしずして

船に積みたる蛤を 残らず海に沈めけり……

兼山は、土産だと持ち帰った蛤を、みな海へと沈めてしまいます。
何事だと驚く人々に向けて、兼山はこう言い放ちます。

「これはここに将来生きる子や孫への土産である」と。

ご存知のように蛤は、土佐の名産となることはありませんでした。
しかし、昭和のはじめまではその恩恵を享受できたそうで、兼山の目的は無事果たされたのであります。

一行は、ヤ・シィパークの代表理事をお勤めになられる丸岡克典さんにお話を伺いました。


丸岡さんは可動橋の建設や、道の駅の魅力化などを通じて、夜須、手結の振興につとめておられます。
将来に渡ってこの地域が栄え続いてゆくようにと、
丸岡さんの思いもまた、当時兼山の抱いたそれと同じでありました。

柳田國男がこういう事を言っています。
「仮令一時代の国民が全数をこぞりて希望する事柄なりとも、必ずしもこれをもって直に国の政策と為すべからず。国家がその存立によりて代表し、且つ利益を防衛すべき人民は、現時に生存するもののみには非ず、後世万々年の間に出産すべき国民も、亦之と共に集合して国家を構成するものなればなり。」

目先の利益にとらわれず、将来のはらからに至るまでに思いを馳せ、決断する。
これは地域活性というものを考えるうえで、決して欠くべからざる考えでありましょう。

歴史というものを眺める視点についてもまた然りです。
歴史を眺めるとは、我々もまたその持続の中に身を置いているという事を知るに他なりません。

 

さて、最後はみなで列車にのって、和食駅へ。
運賃表を見て、和食200円か〜とつぶやいた生徒がいましたが、読みは“わじき”です。


(車窓から)


和食には、こんなインスタ映え?なスポットも

今回の歴探は、歴史を紡いでゆくこと、
その中に生まれる人工の美と、そして自然の美、その双方を感じることができたのではないでしょうか。

最後は、可動橋の前でパシャリ!

今から1ヶ月ほど前、嶺北高校から二人の生徒が沖縄に向けて出発しました。『「世界津波の日」2017高校生島サミット in 沖縄』に参加するためです。それは、世界25カ国から高校生255名が参加するという、嶺高生二人にとっては、かつて経験したことのない大舞台でした。

 

津波サミットに参加した2年生の二人

 

でも、そもそも高知県の中山間地域に位置する嶺北の高校生たちが、津波サミットでいったい何を発表したのでしょうか。そこには、中山間地域ならではの視点がありました。

南海トラフ地震で確実に被害を受ける高知県。

そして、同じ高知県でも、海から遠く、山に囲まれた嶺北。

津波の直接的な被害を受けない私たちに、何ができるだろうか。

 

そうしてたどり着いたのが、肥沃な土地を生かして野菜を育て、嶺北ならではの災害食を開発し、被災した人々に届けよう、というアイディアでした。

こうして、防災をテーマに活動するRGAと、地元の食材を活かした食品開発などを手がけてきたRYNという嶺北高校の二つの自主活動グループのコラボが始まったのです。

津波サミットに参加した和田さんと原さんに話を聞いてみると、沖縄に向かう飛行機の中、ワクワク感よりも緊張感の方が強かったそうです。その一つの原因は、サミットではプレゼンもディスカッションも全て、英語が公用語に決められていたことにありました。そのため、夏休み明けから2ヶ月半、二人は発表の練習を重ねてきたのです。

2人のプレゼン指導を担当したのは、英語科の横山先生とALTのTosin。横山先生は、これまでも多くの生徒たちにプレゼンテーションやスピーチを指導してきた非常に積極的な先生です。「人前できちんと自分を表現できるひとになって欲しい。そのために嶺高生にはいろいろな場に出てたくさんのことを経験して貰いたい。」それが横山先生の願いです。

 

目標は「絶対にプレゼンを成功させること!」


ALT以外の外国人と話したのは初めてという二人は、インドネシア、クック諸島、バヌアツ、タイの生徒たちとグループワーク。「3人1組でのディスカッションのときなどに自分の英語力が足りず上手く話せなかったので、これからはもっと英語が使えるように勉強していきたいと思うことができました」と振り返ります。

 

自己紹介をする嶺高生の二人

 

ディスカッションも英語!

 

また、高校生とは思えないほど身長が高い外国人もたくさんいたり、逆に小学生のように小さい人もいたりと、体の大きさも肌の色も言語も様々な同世代の学生に出会えたことが、二人にはとても新鮮だったようです。

二人に、サミットで印象に残っていることを聞くと、沖縄で出会った海外の人とSNSでも繋がることで自分の世界が広がったことを話してくれました。

「生まれて初めて海外へメッセージを送りました。」

これからも、嶺北からたくさんのメッセージが、外国の友人たちに届きますように。

(文:嶺北高校学校支援地域本部コーディネーター 鈴木大裕)

11月17日(金)

「ねえねえ、(コロッケの)かたちは?」
「なんでもいいけど、できたら丸がいいなぁ。」

小学生の質問に優しく答える嶺高生は、何だかいつもと違った雰囲気でした。
この日は嶺北高校農業コースの3年生が、吉野・本山小の生徒たちを招いて行う『さつまいもパーティー』の日。

春に一緒に植えたさつま芋を秋に一緒に収穫し、一緒に調理し、一緒に食します。商業コースの生徒も皿洗いなどで活躍しました。
メニューは、さつまいもごはんのおにぎり、さつまいものコロッケ、サラダ、さつまいもの具だくさん味噌汁、そしてかんたんスイートポテト。

「みんなつぶせた?」「じゅんばんにとりに来て下さい!」と、子どもの扱いがとても上手な高校生も。そんな高校生に小学生は思わず呼びかけます。
「せんせい、みて!」

 

10月12日、嶺北高校歴史探究会で、民謡土佐柴刈り唄を踊りました。

刈田と晩稲とが、美しいモザイクを描く、土佐町は相川の棚田。

土佐柴刈り唄は、ここ相川・高須地区に、その原型が古くから伝わる民謡で、いわゆる仕事唄の一つであったとされています。

ここで言う“柴刈り”とは、化学肥料の無い時代、田植え前に柴草を刈り取り、肥やしとした作業のこと。

言うまでもなく、機械のない時代において、これは大変な作業でありました。

労働と生活とが全く同じ意味を持った時代にあって、歌は、この土地に生きるひとびとの生活を励まし、彩りあるものとしていたのです。

柳田國男の『鼻唄考』にこうあります。

「歌をうたふ気になれないような仕事は、昔だってそれは有ったらう。しかし、羨ましいことには最も多くの仕事は其の反対に、歌って働かずに居られなかった。さうして其様な仕事のみが、國の歴史にも人の傳記にも記憶せられ又感歎せられて居る。だから我々の過去は美しく見えるのである。」

「嫁も取ろう〜」

この柴刈唄のフレーズも含め、こうした踊りや唄の価値は、それがあまりに平俗であるが故に、文化としてはある種正当には評価されてこなかった嫌ひがあります。

だが、神祭にせよ、酒宴にせよ、はた盆踊りのようなものであろうと、「せずには居られない」のだからそれはすなわち彼ら、彼女らにとって仕事であったに違いないのです。

「獨り戀ばかりが、其外で有った筈は無いのである。是をせねば人は寂しく、家は悉く草原の原となったらう。」

柳田國男『鼻歌考』

柳田の指摘に従うならば、ひとびとはまさしく一つの生活を生きただけでしょう。

そして、そこに生まれたものは紛れもなくひとつの文化であった。そういうわけでありましょう。

最後に、柳田が「歌」というものの意味について述べたところを、少し長いですが引いておきます。

「人の若い時は夢の間に過ぎ去って、再びもとの舊巣を訪れるという事は無い。それだから力の及ぶ限りの活躍をして、空しく青春の日を費やし盡くさぬやうにといふ、余韻を含んで居たればこそ聴く者の胸を打ったのである。人の若い時の計畫と認めて居た時代などは、遠い遠い大昔の事になってしまった。しかも一つの民族の團結が続く限り、この老いて行く者の心からの嘆きが、新たに目覚めた人々の激動となることは、学芸の上でも変わりは無いのである。過ぎて返らぬ若い時を振囘って、うまくしおほせた、完全であったと、自得し得る者などは一人だって無い。同じ緑の野の草を踏み、笑ひさざめいて後から来る人々に、つまらぬ路草の爲に疲れてしまはぬやうに、早く正しく學び且つ覺えて行くことを勸めるにも、やはり斯ういった自ら憐む歌と、高く唱えることが最も痛切なる手段だったのである。」

柳田國男『民謡覺書』より

 

民謡とは、それを歌い継ぐことで如何に生くべきかを学び、考えるための手段だったのでありましょう。我々にとって生活とは、労働とは、生きるとはどういうことであろうか。そうした素朴な人間性が捨象され、バラバラに分断されたかのような現代にあって、我々が民謡を愉しむという事の意義については言うまでもなく大きなものがあるのです。

無筆謙遜なる老教師の引退によって途絶えた傳統の糸を再び見つめ、それをつむぎ直すこと。学問をするとは、なにも書物を繰ることだけではありますまい。歌い、舞うこと。それが、それのみが学ぶことであった時代に思いを馳せてみる。

今回の歴史探究はまさに、“歴史を生きてみる”

そんな時間になったのではないでしょうか。

(文 嶺北高校学校支援地域本部サポーター 岡田光輝;踊指導 澤田美恵子;撮影 大辻雄介)

10月4日、嶺北高校農業コースの2年生が、石原で「天敵農法」という素晴らしい取り組みをしている米ナス農家に見学に行きました。野菜を荒らす様々な害虫をそれぞれの天敵である虫に駆除させ、農薬に頼らない農業を実践している窪内さん。

ただ、その年ごとの自然環境に大きく左右される天敵農法は困難で、ビニールハウスの中の生態系をくまなく見る鋭い観察力と労力が要るそうです。天敵が害虫をしっかり食べてくれる年もあれば、害虫の繁殖を止められず、止むを得ず農薬を使う年もあるそうです。また、様々な害虫を餌とする天敵を買い揃えるお金もばかになりません。

しかし、そんなに苦労して作られた窪内さんの野菜も、市場では農薬を使った他の野菜とごっちゃになってしまい、高い値がつくわけではないそうです。それなのに、どうして窪内さんは天敵農法を実践し続けているのでしょうか。

それは、できる限り農薬を使わずに野菜を作るという、窪内さんの「こだわり」だそうです。

この課外学習を企画した萩原陽子先生の、「あらゆる観点から農業を学べるようにつとめてます」という言葉通り、窪内さんの話は、害虫、土の養分、食物連鎖、気候の変動、バブル期と今日の野菜の値段の変動など、非常に多岐にわたる、生きた学びの詰まった課外学習でした。

帰り際、萩原先生が同行した生徒たちにかけた言葉が、とても印象的でした。

「嶺北ってすごいがで。」

(文:高知県立嶺北高校学校支援地域本部コーディネーター 鈴木大裕)

様式ダウンロードは をクリックし保存してください。

平成29年度 体験入学申込書(各中学校用)ダウンロード

8月6日(日)は台風5号が接近中でしたが、意外と天気は良く、カヌー部は早明浦ダムの活性化を目指して活動している「NPO法人さめうらプロジェクト」愛称「らぶさめ」のお手伝いをしました。

「らぶさめ」には嶺北高校生や卒業生も多数参加しています。掛け持ちしているカヌー部員もいます。

カヌー部員は、準備のお手伝いや、参加者にパドルの使い方をレクチャーしたりしました。 

 

そして、午前中に2回、カヌーで片道1kmちょっと先にある赤い橋まで往復しました。

カヌー部員が早明浦ダムでカヌーに乗るのは初めてですが、波も流れもないため、思ったよりも乗りやすかったかな…。

ラヨシュコーチと記念撮影!

 

その後、スタンドアップパドル・サーフィン(略称:SUP・サップ)を初体験!

とっても楽しかった~!!

 

このHPをご覧になっている皆様も、ぜひ嶺北にウォータースポーツを体験しに来てください。

お待ちしています。

高知新聞や折り込みチラシなどの宣伝によって、ご存じの方も多いと思いますが、2月の「高校対抗!第3回高知家の牛乳料理コンクール」で最優秀だった「コロッケ風春巻きのレタス包み」です。

開催日時は7月15日土曜日11:00から15:00、地元レストランである四季菜館で行います。

うどん県!

もとい、

<香川県は高松までいってきました〜!!>

報告の前に今回の経緯を少し書いておきましょう。

前回(6/10)、吾々は「兼山の足跡を追う」をテーマに春野へいってきました。

ご存知野中兼山(1615年−同64年)は、土佐藩は二代藩主山内忠義に仕えて権勢を振るい、その後の土佐藩、引いては現在の高知県の繁栄に大きく寄与した人物です。しかしそうでありながら、その執政期から既に、政敵や領民を中心に強い反感を買い、晩年には失脚。さらにその死後には、一族須く(すべからく)、その男系の血が絶えるまで軟禁状態に置かれる、という大変悲惨な末路を辿ったことで一般に知られています。

対して今回取材した讃岐には【西嶋八兵衛】(1596年−1680年)という人がおりました。

八兵衛は兼山同様、讃岐国などで灌漑工事を指導した人として知られます。

はて、では一体八兵衛はどのような道を辿ったのでありましょうか。

 そういうわけで今回の「歴探」は、”讃岐の禹王”西嶋八兵衛を追う旅です!

 

今回の歴探は栗林公園からスタート〜

(この日はとにかく暑かった、、、みんな若干おつかれモード?)

はい、突然ですが、今回のメインとも言える大禹謨碑です。

この碑は、当時暴れ川として知られていた香東川の治水にあたった八兵衛が、その成功の願掛けとして埋めたものとされています。現在は保存のために栗林公園内に安置されているのです。

ではこの【大禹謨】とはなんのことでしょうか?

 

”禹”とはこの方

中国の伝説的皇帝であり、古代王朝「夏」の創始者とされる人物で、孔子が編纂したとされる「書経」にもその功績が記されています。

黄河の治水事業を成功させたことから、治水の神として日本でも古くから信仰を集めました。

成る程、八兵衛は一般に土木技術家として知られていますが、他方その再興期にあった「学問」にも通じた人物であると言えるのです。

そう、この「学問」、兼山を語る上でも切っても切れないワードでした。「小学」を中心に儒学に親しんだ兼山、大禹謨碑を沈め、その学問に対する敬虔さを示した八兵衛。そういう二人を分かつものとはなんなのでしょうか。

 

謎は深まるばかり???

 

そんなときには茶屋で休憩ー!

寺尾:「お、はちべエって書いてあるね」

岡田:「あれは、水戸黄門のほうだとおもいますよー」

(うっかり八兵衛な寺尾でした 〜)

 

さて、暫しの栗林散策のあとには、大禹謨碑出土の地へ

香川県立中央高校のグラウンド横、香東川東派川締切と呼ばれる箇所に今では大禹謨碑のレプリカが置かれています。 (レプリカの方が本物っぽい?-参加者談)

続いて八兵衛の屋敷跡、立て看板が一つあるだけでした。

 

さて、今回の歴探はここまで。

うむ、なかなか西嶋八兵衛という人の全体像を把握することは難しそうです。

最後に示唆的なものを書いておこうと思います。

八兵衛の生まれは遠州。17歳のとき、伊勢の藤堂高虎に召し抱えられ、大坂の陣では数々の武勲を挙げたとされています。その後、讃岐に渡ってからの活躍はここまで書いてきた通り。

晩年は生駒家のお家騒動もあり、再び伊勢に戻って、最後は伊賀に隠居、そこで実に85年にわたる長い生涯を閉じます。

治水家としての顔に隠れがちなのが、八兵衛の書家としての姿。その腕前は大変なもので、鎌倉期の書の大家、尊円法親王を彷彿させる筆致であったと、後世に伝えられています。

土木事業、学問、そして書。八兵衛という人は、それらの仕事に対して、実に敬虔に向き合っていたように思えます。禹王碑を祀った態度、それは穏和な常識人西嶋八兵衛という人間を実によく語っているように見えるのです。

八兵衛とほぼ同時代、伊賀のとなり近江には中江藤樹という学者がおりました。戦乱の世が終わり、下克上という言葉を生んだ人々の智慧は、すかさず政治の世界だけでなく、学問の世界にも起こったのです。

藤樹は、後に続く学問上の下克上、謂わば克己劇といっていいものの端緒を開くことになります。徂徠、仁斎、宣長と続く学問のさきわい、それを透徹していたもの、その精神は、やはり八兵衛に垣間見える敬虔さではないでしょうか。

時代のうつろいとそれに対する順応、そして物事に向き合う態度。思想というものを己に克つべくつかうのか、或は政治の道具としてつかうのか、、、

勿論兼山という人間の本当の部分はわかりません。兼山にせよ、八兵衛にせよ、吾々が触れることができるのは、もう殆ど伝説といっていい伝え言それだけです。「歴史をする」ときには、常に其れに対する吾々の態度の方が問われているのでしょう。歴史を考えるという事、それはまた自分自身を考えるという事に他ないのでは。

八兵衛と兼山、今回の旅は、歴史そのものと向き合う旅であったのかもしれませんね。

というわけで、最後は歴史っぽくお城(玉藻城)でパシャリ!!

6月10日、兼山の足跡を追おうということで、春野へいってきました〜

今回案内役をしてくださったのは元嶺高の畠中先生!(ありがとうございました!!)

まずは、行当の切抜きへ。水を遠くまで運ぶためにこの傾斜を利用しています。

行当のきりぬきの説明と碑文。 みんなで苦労しながら判読Timeです!

 

仁淀川の治水。成る程このスケールを見れば、それが如何に悲願であったかが分かります。

 

吾々が普段なにげなく眺めているこのような景色も実は途方もない苦労の跡であったりするのです。

 

 

さて、ところ変わって新川の落とし。なんと遍路道でもあったとか。
先生の趣味で話が逸れるのも歴探の魅力。大師堂や五輪塔の解説はさすが畠中先生です。

 

 

新川の水路幅は他より少しばかり広い。そう、ここは用水路としてだけではなく、水運のためにも使われていたとか。

 

 

恵比寿神社に白塗りの土蔵。町屋風の趣きある街並みは、かつてこの土地の謳歌したであろう繁栄を今に色濃く遺している。これも勿論兼山の事業あってこそなのです。

 

 

最後は龍馬像の前でパシャリ。幕末の龍馬、そして、その後の発展に至るまでの土佐の学問の道。兼山の築き上げたその功績に触れ、その一端を垣間見ることのできた一日でした!