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谷    重    遠    墓
   



   たにしげとうのはか



    国指定 史跡         指定年月日 : 昭和19年11月13日



   高知県香美市土佐山田町  ・  香美市
         


   谷丹三郎重遠は、土佐藩政中期の儒学者で、秦山(じんざん)と号した。
   墓は、土佐山田町の街区の後背にある小高い丘陵の中腹にある。
   「墓大なるは、子孫衰亡の兆しなり」との遺言の通り、自然石を重ねた質素な佇(たたず)まいである。
   秦山は、山崎闇斎(あんさい)晩年の高弟で土佐南学の中興の祖と称され、その学風は、朱子学と神道と史学を
  融合したもの、子孫にも守垣、真潮ら優れた学者を輩出、谷家の学と称されて、藩の学統に大きな勢力を占め、
  幕末維新期の尊皇攘夷思想の背景を培った。
   しかし、秦山その人は、5代藩主豊房には重用されたが、6代藩主豊隆襲封の際、疎(うと)んぜられる事件に
  連累して山田に蟄居(ちっきょ)謹慎、ここで没した。
   明治時代の陸軍中将で政治家の谷千城は、彼の後裔(こうえい) である。