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土佐藩主山内家墓所



   とさはんしゅやまうちけぼしょ



    国指定 史跡   指定年月日 : 平成28年3月1日



   高知県高知市筆山町・個人(管理団体:公益財団法人土佐山内記念財団)
         


     土佐藩主山内家墓所は、江戸時代、土佐藩20万石を領した国持大名・山内家歴代の墓所として営まれたものであり、高知城跡の東南約2km、高知市中心部を東西に流れる鏡川右岸沿いの丘陵である筆山(ひつざん)北麓に位置する。 土佐藩主初代の山内一豊(やまうちかつとよ)は、天文14年(1545)尾張国に生まれ、豊臣秀吉の元で数々の武功を上げ、天正13年(1585)に若狭高浜、次いで近江長浜城主となり、同18年には遠江掛川に5万石を得た。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従って戦功を上げ、その功績により一豊は土佐一国を与えられる国持大名となった。それ以後、山内家は明治維新に至るまで土佐藩主を勤め、幕末には西南雄藩の一つとして政局に大きな影響を与えた。  初代藩主一豊は、慶長10年(1605)高知にて没し、筆山に葬られた。二代藩主忠義も高知で没し同様に筆山に葬られ、その後、三代藩主忠豊(ただとよ)は江戸にて死去したが、その遺骸は土佐に運ばれ、筆山に埋葬された。これを先例として、土佐藩では藩主が江戸参勤中に亡くなると遺骸を国許に持ち帰って葬儀、埋葬する帰葬を行った。明治5年(1872)東京で死去した十五代藩主豊信(とよしげ)を除き、十六代藩主豊(とよ)範(のり)までの歴代藩主をはじめ、藩主子女、一部の正室・側室が筆山に葬られ、墓所に隣接した曹洞宗真如寺(しんにょじ)において歴代藩主等の葬儀や法要が行われた。  平成21?24年度に土佐山内家宝物資料館が山内家墓所に関する文献調査、現況調査を行い、平成25、26年度には高知県が同様に文献調査や墓所、墓石等の測量や発掘調査を行った。墓所は、筆山の北麓に南北約130m、東西約200mの範囲で展開する。墓所には藩主15人、正室2人、側室1人、子女15人の墓標等が存在する。最上段に初代一豊墓を構え、その下段に歴代藩主の墓域が置かれ、最下段部に子女の墓域が置かれている。藩主墓域の造営は6期の変遷があり、初代藩主一豊が死去し、筆山に葬られた第1期、三代藩主忠豊が死去し、一豊廟所を筆山上段に改葬した第2期、6代藩主豊隆が死去し、墓域を下段に拡張した第3期、八代藩主豊敷が死去し、墓域を西に拡張した第4期、十代藩主豊策が死去し、二代と十一代の間に廟所を造営する第5期、十三代豊煕・十四代豊惇が死去し、更に東に墓域を拡大する第6期に区分できる。墓域には合計22基の墓標が存在し、形状は初代の無縫塔形に始まり、三代藩主からは位牌形に変遷する。墓域内には高さ3から5mの墓標や、高さ2mの石灯籠、藩主の事蹟を刻した亀趺(きふ)等の巨大な石造物が立ち並ぶ。発掘調査では、墓域の範囲確認と墓道等の構造解明を目的とする調査が行われ、覆屋ないし塀等の基礎遺構、石組み側溝等を確認した。藩主の葬儀等を記した文献史料は詳細に残る。幕末作成の「真如寺御廟所画図面」(山内神社所蔵)等の図面等もあり、それによれば、参道等に変化が見られるものの、現在の墓所は大きな改変を受けていないことが分かる。また、墓所最下段部にある子女墓域には13基の墓標が存在する。その造営時期に関しては不明であるが、当初の墓域は文政10年(1827)に死去した十二代豊資の長女の廟所で、天保期以降、東側に拡張されたものと考えられる。  このように、土佐藩主山内家墓所は、土佐藩主山内家歴代の墓所として営まれたものであり、国持大名としての威厳と風格を備え、近代以後の改変も少なく往時の状況を良く残し、かつ、文献史料等の資料も良く残る。幕藩体制下の大名の墓制、葬制を知る上で貴重であることから、史跡に指定して、その保護を図るものである。