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鹿  持  雅  澄  邸  跡



   かもちまさずみやしきあと



    高知県史跡           指定年月日 : 昭和38年 7月 5日



   高知県高知市福井町  ・  高知市
         


   国学者で歌人の鹿持雅澄は、下士(白札格)柳村尉平の子、通称藤太、古義軒と号し、生涯をここで過ごした。
   今は、住宅街の中に埋もれた形になったが、当時邸宅周辺は一面の水田で、北西の小高い丘には先祖の墓所
  があり、鹿持神社が建つ。
   祖先は、京都から中村一条氏に従って土佐に入った飛鳥井雅量と伝える。
   鹿持姓は、先祖の居城地名に因(ちな)むという。
   藩の下級吏員(りいん) を勤めつつ、賀茂真淵の学統につながる宮地仲枝に師事し、万葉集の研究に打ち込み、
  長い年月をかけて畢生(ひっせい)の大著「万葉集古義」(稿本は、高知県立図書館蔵)を完成した。同書は、近代以
  前の万葉集研究の最高峰と高く評価される名著で、明治天皇の天覧の宋に浴し、宮内省から刊行された。


  ※ 詳細は、県史跡鹿持雅澄邸跡整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(埋蔵文化財センター発掘調査報告書第2集) へ

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