室津港と一木権兵衛
それでは、室津港と一木権兵衛のことに話しを進めましょう。
その昔より室津港は、数次にわたる改修がなされて参りましたが、最も本格的な工事は、一木権兵衛が二度目の普請奉行を務めた、延宝五年の改修でございました。
大変な難工事で、港口の 斧岩、鮫岩、鬼牙岩の三岩が、人力を全く寄せ付けませんでした。工事の遅れに切羽詰った権兵衛は、海神に向かって「此役成に至候は、我命則牲と成て君に捧げん」と誓った。
するとふしぎなことに、岩は砕け散り、辺り一帯は血の海となりました。
翌日報告のため高知に向かった権兵衛が、浮津の浜まで参りますと、急にからだがしびれ、一歩も進めません。室津へ帰ると、不思議なことにしびれはなおるのでありました。
あくる日同じことを繰り返した権兵衛は、海神に命を捧げるときがきたことを悟り、翌日港の上の石登崎において、自らの命を絶ったのでございます。
浦人は権兵衛の徳をたたえ、津寺で法要を営み、のちには一木神社を建立したのでございます。
「御釜岩」は、権兵衛が難儀をした岩の一つで、鑿の跡を多く残したまま、津寺のすぐ前の一木神社の境内に置かれています。
さてみなさま、津寺右手奥の山をごらん下さい。アンテナが縦横に張られているのが見えますが、あそこが室戸漁業無線局でございます。
室戸の漁船は遠洋、近海を問わず、24時間、電信、電話、無線印刷電信や、テレックスの通信業務のお世話になっているのでございます。
室戸岬にぶつかる黒潮は、南のほうから、いろんなものを運んで参りますが、写真の魚も,南の国から「黒潮ツァー」をして土佐湾進出を試みた、熱帯性魚類の ベイビーちゃんでございます。
稚魚たちは「砕波帯」と呼ばれる、渚の波打ち際を棲息圏としているが、そのほとんどが”帰らざる漂流者”として、この辺りの浜辺で、その短い命を終えているのでございます。