浦戸の歴史と伝統

一部Wikipediaから引用しています。

  1. 浦戸一揆と一領具足
  2. サン=フェリペ号事件
  3. 練り子-御神幸薙(ごしんこうなぎ)刀(なた)舞(まい)(長刀舞)
  4. その他

サンフェリペ号事件の概要

1596年(文禄5年・慶長元年)7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の途についた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われ、甚大な被害を受けた。船員たちはメインマストを切り倒し、四百個の積荷を放棄してまでなんとか難局を乗り越えようとした。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、船長は日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。

1596年10月19日(文禄5年9月28日)、船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船が浦戸湾内へ曳航されたが、湾内の砂州に座礁した。船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に宿を与えられたため、一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の一人増田長盛が浦戸に派遣されてきた。使者の一人ファン・ポーブレが前もって戻ってきて、積荷が没収されることと自分たちも処刑される可能性があることを伝えると船員一同は驚愕した。

増田らは、同伴の黒人男女にいたるまで船員全員の名簿を作成し、積荷の一覧を作ってすべてに太閤の印を押した。船員たちは町内に幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。

増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄すると、都に戻っていった。

無一文となったランデーチョはすぐに都に上って秀吉に直接抗議しようと決めたが、長宗我部元親の許可がなかなか得られず、12月になってようやく都に上った。しかし、都では交渉の仲介を頼もうとしたフランシスコ会などスペイン系の宣教師たちが捕らえられていた。彼ら宣教師はやがて処刑されることになる。

その後、船員たちの度重なる申し出を受けて、サン=フェリペ号の修繕が許され、一同は1597年4月に浦戸を出航し、5月にマニラに到着した。マニラではスペイン政府によって本事件の詳細な調査が行われ、船長のランデーチョらは証人として喚問された。その後、1597年9月にスペイン使節としてマニラからドン・ルイス・ナバレテらが秀吉の元へ送られ、サン=フェリペ号の積荷の返還と二十六聖人殉教での宣教師らの遺体の引渡しを求めたが、果たせなかった。

豊臣秀吉は1587年にすでにバテレン追放令を発布していたが、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであったため、黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また、この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰は禁止されなかったため、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。

参考1―ガレオン船

ガレオン船(Galleon)とは、16世紀半ば~18世紀ごろの帆船の一種である。単にガレオン・ガリオン・ガリアンなどとも表記される。戦列艦の原型にもなった。

吃水が浅いため速度が出るが同時に転覆もしやすくなった。小さめの船首楼と大きい1~2層の船尾楼を持ち、4~5本の帆柱を備え、1列か2列の砲列があった。

速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船は西欧各国でこぞって軍艦・大型商船として運用され、スペインはこれを大型化して新大陸の植民地の富を本国に護送するために使った。フランシス・ドレイクが世界一周に使用したゴールデン・ハインド号などは有名なガレオン船である。

参考2―26聖人の殉教

1596年10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は12月8日に再び禁教令を公布した。また、イェス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。ちなみに、二十六聖人のうちフランシスコ会会員とされているのは、スペインのアルカンタラのペテロが改革を起こした「アルカンタラ派」の会員達であった。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イェス会関係者3名の合計24名が捕縛された。三成はパウロ三木を含むイェス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。

24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイェス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。二人は基督教徒として、己の信仰のために命を捧げることを拒否しなかった。

厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行寺沢広高の弟)は、一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしたが、ルドビコはこの申し出を丁重に断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立てて、イェス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された。長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が発布されていたが、4000人を超える大群衆がそこへ集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして群集に自分の信仰を語った。一行が槍に両脇を刺しぬかれて殉教したのは午前10時ごろであった。

遺骸は死後、多くの人の手でわけられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはフロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、聖人の列に加えられた。1962年には列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑が建てられた。

26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトゥガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性であった。

長崎市にある日本26聖人記念館