浦戸の歴史と伝統

一部Wikipediaから引用しています。

  1. 浦戸一揆と一領具足
  2. サン=フェリペ号事件
  3. 練り子-御神幸薙(ごしんこうなぎ)刀(なた)舞(まい)(長刀舞)
  4. その他

1.浦戸一揆と一領具足

浦戸一揆の概要

浦戸一揆は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果改易処分となった長宗我部氏の家臣が本拠地の浦戸城の明け渡しに反対して起こした一揆。

関ヶ原の戦いで西軍につき敗れた土佐国の長宗我部盛親(元親の四男)は帰国も許されないまま改易された。同年、徳川家康は井伊直政の家臣を上使として土佐国に派遣して当時の本拠地であった浦戸城を接収しようとした。追放処分を受けた長宗我部家の後継として土佐を与えられたのは山内一豊だったが、長宗我部家の遺臣団は新領主の登場を必ずしも歓迎しなかった。

そして長宗我部氏の家臣竹内惣右衛門を中心とする一領具足は浦戸城の引渡しを拒否し、盛親に旧領の一部(土佐半国という)を与えることを要求し、上司の宿所であった雪蹊寺を1万7千人で包囲し浦戸一揆を起こした。

これに激怒した徳川家康は四国諸大名に土佐への派兵を命じた。山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣。遺臣団側は浦戸城に篭城して50日間ほど抵抗したが、長宗我部氏の家臣の間では重臣級の「年寄方」と一領具足級の「家中方」の間で意見の対立が生じ、これをきっかけに一部の重臣が策謀をもって浦戸城の一揆軍を城外に締め出し、12月1日に動揺した一揆軍を浦戸城外で破った。城内の裏切りによって開城、降伏した。273人の一領具足が斬首され、その首は塩漬けにされて大阪の井伊直政のもとへ送られたという。その結果、12月5日に浦戸城の接収作業は完了し、翌慶長6年1月8日(1601年2月10日)新領主の山内一豊が浦戸城に入城した。

一揆の背景として、主戦派ではない長宗我部氏に対する過酷な処分に対する反発と言うものもあるが、長宗我部氏独特の一領具足の軍制との関係も言われている。この制度は当時中央(織田・豊臣・徳川政権)で進められていた兵農分離と逆行する性格を有しており、土佐の支配者が現地とは無関係な織田・豊臣家臣出身の山内氏に代わることで一領具足の身分剥奪につながることは明らかであった。このことは、武士身分として内外に認められる存在であった重臣が最終的に接収に応じて一揆鎮圧に協力した姿勢と武士身分の剥奪を恐れた一領具足の抵抗の姿勢という温度差になって現れたと言える。

新領主の山内一豊は表面上は長宗我部氏時代の政策を尊重を掲げつつ、実際には旧長宗我部氏家臣(郷士)に対する厳しい差別と弾圧を行い、土佐藩の基礎を築いていくことになる。

その後も高石左馬助を中心とする滝山一揆(本山一揆)など、一領具足による反乱が起こったが、山内家はこれを鎮圧し、やがて一領具足を含む長宗我部遺臣団を、藩士(上士)以下の身分である郷士として取り込んだ。土佐では郷士は藩士と厳密に区分されたため、江戸時代を通じて上下対立の原因となり、こうした厳しい対立が維新の志士を土佐藩が多く生む土壌となったことが推測される。

● 一領具足

一領具足(いちりょうぐそく)は、戦国時代の土佐国の戦国大名、長宗我部氏が兵農分離前の武装農民や地侍を対象に編成、運用した半農半兵の兵士および組織の呼称。『土佐物語』では、「死生知らずの野武士なり」と書かれており非常に勇敢であったことがわかる。

一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待されていた。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された。また正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く一領しか具足を持っていないので、こう呼ばれていたとも言う。このような半農半兵の兵士であるから、一領具足は通常の武士が行うべき仕事は免除されていた。農作業に従事しているために、身体壮健なものが多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあったと考えられる。ただし、その半農半兵という性質上、農繁期の動員は困難であり、長期にわたる戦役には耐えられなかったと推測される。兵農分離によって農繁期でも大規模な軍事行動を起こせるようになった織田などの勢力とは、全く逆の方向に進化した軍事制度といえる。

一領具足を考案したのは長宗我部国親である(家臣の吉田孝頼という説もある)。もっとも積極的かつ効率的に一領具足を運用したのは、国親の子の長宗我部元親である。元親は精強な一領具足を率いて四国統一を果たしたが、豊臣秀吉による四国征伐によって、元親の領地は大幅に削減され、土佐一国のみとなる。さらにその後の関ヶ原の戦いでは、家督を継承していた元親の四男長宗我部盛親が西軍に与したため、戦後、所領は没収され改易となった。


参考1―六体地蔵(石丸神社)

六体地蔵は、もともとは平安中期以降に祀られた六体の地蔵信仰が盛んになったこととつながる。仏教観の地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六道に由来するものである。

浦戸地区の六体地蔵は昭和十年に開眼式、「南海地蔵尊」との説明板があるが、浦戸一揆で絶命した人々を供養するために建立されたことが伝えられている。

参考2―浦戸城

高知市南部、桂浜の北部丘陵の浦戸山(標高59m)上に築かれた中世の平山城跡で、土佐湾(太平洋)に面している。浦戸は高知平野の入り口に位置し、紀貫之の『土佐日記』にも浦戸の港として記載されるなど、古来より水運の拠点となる地であった。

古くより城砦があったとされるが、本格的には戦国時代に本山氏により築城されたと考えられている。その後本山氏を滅ぼした長宗我部氏が支城とし、長宗我部元親が大幅に改修した後、大高坂城(現 高知城)より移って居城とした。長宗我部時代には本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成されて3層の天守が設けられる大規模な城であり、丘陵北部の浦戸湾岸に城下町が置かれた。江戸時代、長宗我部氏に代わって土佐に入国した山内一豊もまた本城を居城としたが、高知城築城後に居を移したため、廃城となった。

廃城後は山内氏による高知城築城に資材が使われ、さらに国民宿舎桂浜荘と坂本龍馬記念館が建築されたこともあって、現在、遺構と呼ばれるものは殆どない。本丸石垣の一部と二ノ丸付近に3条の堀切が僅かに残り、石碑が建っているのみである。桂浜荘と龍馬記念館の建つ辺りが本城となる。