今回の歴探はなんと県外!(嶺北歴史探究会)

うどん県!

もとい、

<香川県は高松までいってきました〜!!>

報告の前に今回の経緯を少し書いておきましょう。

前回(6/10)、吾々は「兼山の足跡を追う」をテーマに春野へいってきました。

ご存知野中兼山(1615年−同64年)は、土佐藩は二代藩主山内忠義に仕えて権勢を振るい、その後の土佐藩、引いては現在の高知県の繁栄に大きく寄与した人物です。しかしそうでありながら、その執政期から既に、政敵や領民を中心に強い反感を買い、晩年には失脚。さらにその死後には、一族須く(すべからく)、その男系の血が絶えるまで軟禁状態に置かれる、という大変悲惨な末路を辿ったことで一般に知られています。

対して今回取材した讃岐には【西嶋八兵衛】(1596年−1680年)という人がおりました。

八兵衛は兼山同様、讃岐国などで灌漑工事を指導した人として知られます。

はて、では一体八兵衛はどのような道を辿ったのでありましょうか。

 そういうわけで今回の「歴探」は、”讃岐の禹王”西嶋八兵衛を追う旅です!

 

今回の歴探は栗林公園からスタート〜

(この日はとにかく暑かった、、、みんな若干おつかれモード?)

はい、突然ですが、今回のメインとも言える大禹謨碑です。

この碑は、当時暴れ川として知られていた香東川の治水にあたった八兵衛が、その成功の願掛けとして埋めたものとされています。現在は保存のために栗林公園内に安置されているのです。

ではこの【大禹謨】とはなんのことでしょうか?

 

”禹”とはこの方

中国の伝説的皇帝であり、古代王朝「夏」の創始者とされる人物で、孔子が編纂したとされる「書経」にもその功績が記されています。

黄河の治水事業を成功させたことから、治水の神として日本でも古くから信仰を集めました。

成る程、八兵衛は一般に土木技術家として知られていますが、他方その再興期にあった「学問」にも通じた人物であると言えるのです。

そう、この「学問」、兼山を語る上でも切っても切れないワードでした。「小学」を中心に儒学に親しんだ兼山、大禹謨碑を沈め、その学問に対する敬虔さを示した八兵衛。そういう二人を分かつものとはなんなのでしょうか。

 

謎は深まるばかり???

 

そんなときには茶屋で休憩ー!

寺尾:「お、はちべエって書いてあるね」

岡田:「あれは、水戸黄門のほうだとおもいますよー」

(うっかり八兵衛な寺尾でした 〜)

 

さて、暫しの栗林散策のあとには、大禹謨碑出土の地へ

香川県立中央高校のグラウンド横、香東川東派川締切と呼ばれる箇所に今では大禹謨碑のレプリカが置かれています。 (レプリカの方が本物っぽい?-参加者談)

続いて八兵衛の屋敷跡、立て看板が一つあるだけでした。

 

さて、今回の歴探はここまで。

うむ、なかなか西嶋八兵衛という人の全体像を把握することは難しそうです。

最後に示唆的なものを書いておこうと思います。

八兵衛の生まれは遠州。17歳のとき、伊勢の藤堂高虎に召し抱えられ、大坂の陣では数々の武勲を挙げたとされています。その後、讃岐に渡ってからの活躍はここまで書いてきた通り。

晩年は生駒家のお家騒動もあり、再び伊勢に戻って、最後は伊賀に隠居、そこで実に85年にわたる長い生涯を閉じます。

治水家としての顔に隠れがちなのが、八兵衛の書家としての姿。その腕前は大変なもので、鎌倉期の書の大家、尊円法親王を彷彿させる筆致であったと、後世に伝えられています。

土木事業、学問、そして書。八兵衛という人は、それらの仕事に対して、実に敬虔に向き合っていたように思えます。禹王碑を祀った態度、それは穏和な常識人西嶋八兵衛という人間を実によく語っているように見えるのです。

八兵衛とほぼ同時代、伊賀のとなり近江には中江藤樹という学者がおりました。戦乱の世が終わり、下克上という言葉を生んだ人々の智慧は、すかさず政治の世界だけでなく、学問の世界にも起こったのです。

藤樹は、後に続く学問上の下克上、謂わば克己劇といっていいものの端緒を開くことになります。徂徠、仁斎、宣長と続く学問のさきわい、それを透徹していたもの、その精神は、やはり八兵衛に垣間見える敬虔さではないでしょうか。

時代のうつろいとそれに対する順応、そして物事に向き合う態度。思想というものを己に克つべくつかうのか、或は政治の道具としてつかうのか、、、

勿論兼山という人間の本当の部分はわかりません。兼山にせよ、八兵衛にせよ、吾々が触れることができるのは、もう殆ど伝説といっていい伝え言それだけです。「歴史をする」ときには、常に其れに対する吾々の態度の方が問われているのでしょう。歴史を考えるという事、それはまた自分自身を考えるという事に他ないのでは。

八兵衛と兼山、今回の旅は、歴史そのものと向き合う旅であったのかもしれませんね。

というわけで、最後は歴史っぽくお城(玉藻城)でパシャリ!!