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嶺北高校歴史探究部、今回は県東部、香美・香南市方面に行ってきました!
ここ高知県東部地域も、野中兼山の足跡が多く残された場所です。

まずは、その難工事で知られる物部川中流は山田堰へ。

 

山田堰は、香美市土佐山町神母ノ木から、西岸の同じく土佐山田町小田島にかけて、物部川の流れをせき止めて造られた農業用水と水運の取水堰です。この一帯はかつて暴れ川と呼ばれた物部川によって、度々洪水や渇水といった水害に悩まされてきました。

 

藩政初期、藩の財政基盤整備を目的として、寛永6年に着手されたこの灌漑事業は、実に完成まで26年もの歳月を要しました。その恩恵については言うまでもないとして、やはり、こうした難工事が土佐藩のいたる所で続くうちに、怨嗟の声をあげる人のあったことは事実でしょうし、後の失脚へ繋がったとの指摘もあります。


さて、続いて香南市は夜須町手結港へ、現在ここには道の駅夜須(ヤ・シィパーク)があり、可動橋がCMの題材に取り上げられるなど、注目を集めています。

手結港の可動橋

ここ手結には古くから港がありましたが、兼山が実権を握っていた当時、土砂の堆積によりその機能はほとんど失われていました。近くの夜須川から流入する土砂に加え、荒波により漂砂が流れ込み、港湾機能を消失させたのです。
兼山は、そんな手結港の再建に際し、海岸の岩礁地帯を掘削することを選択しました。こうして造られた現在の手結港の原型は、一般に日本最初の本格的な掘込港湾として知られています。他方、その維持にもやはり多大な労力が払われる事になりました。藩は、その後、5年に一度「港堀り」という制度を設け、堆積した土砂の浚渫を行っています。こうして現在に至るまで手結港は利用されてきたのです。

さて、そんな手結港は、昨年ひょんなことから話題になりました。
昨年1月、首相の施政方針演説の中で、土佐湾における「野中兼山とハマグリの話」が取り上げられたのです。

手結盆踊りにはこんな唄が残っています。

野中兼山良継は 土佐の城主の家臣なり

ある年江戸より手紙にて 土佐の海にはかつてなき

蛤貝という貝を みやげにせんと言いこしぬ

村人よろこび今日明日と 待つほどなく兼山は

蛤あまた船につみ 遠州灘や熊野うら

波風無事に立ち帰る 人々港にいでむかえ

とく蛤よと言いさわぐ 兼山ただちにさしずして

船に積みたる蛤を 残らず海に沈めけり……

兼山は、土産だと持ち帰った蛤を、みな海へと沈めてしまいます。
何事だと驚く人々に向けて、兼山はこう言い放ちます。

「これはここに将来生きる子や孫への土産である」と。

ご存知のように蛤は、土佐の名産となることはありませんでした。
しかし、昭和のはじめまではその恩恵を享受できたそうで、兼山の目的は無事果たされたのであります。

一行は、ヤ・シィパークの代表理事をお勤めになられる丸岡克典さんにお話を伺いました。


丸岡さんは可動橋の建設や、道の駅の魅力化などを通じて、夜須、手結の振興につとめておられます。
将来に渡ってこの地域が栄え続いてゆくようにと、
丸岡さんの思いもまた、当時兼山の抱いたそれと同じでありました。

柳田國男がこういう事を言っています。
「仮令一時代の国民が全数をこぞりて希望する事柄なりとも、必ずしもこれをもって直に国の政策と為すべからず。国家がその存立によりて代表し、且つ利益を防衛すべき人民は、現時に生存するもののみには非ず、後世万々年の間に出産すべき国民も、亦之と共に集合して国家を構成するものなればなり。」

目先の利益にとらわれず、将来のはらからに至るまでに思いを馳せ、決断する。
これは地域活性というものを考えるうえで、決して欠くべからざる考えでありましょう。

歴史というものを眺める視点についてもまた然りです。
歴史を眺めるとは、我々もまたその持続の中に身を置いているという事を知るに他なりません。

 

さて、最後はみなで列車にのって、和食駅へ。
運賃表を見て、和食200円か〜とつぶやいた生徒がいましたが、読みは“わじき”です。


(車窓から)


和食には、こんなインスタ映え?なスポットも

今回の歴探は、歴史を紡いでゆくこと、
その中に生まれる人工の美と、そして自然の美、その双方を感じることができたのではないでしょうか。

最後は、可動橋の前でパシャリ!

うどん県!

もとい、

<香川県は高松までいってきました〜!!>

報告の前に今回の経緯を少し書いておきましょう。

前回(6/10)、吾々は「兼山の足跡を追う」をテーマに春野へいってきました。

ご存知野中兼山(1615年−同64年)は、土佐藩は二代藩主山内忠義に仕えて権勢を振るい、その後の土佐藩、引いては現在の高知県の繁栄に大きく寄与した人物です。しかしそうでありながら、その執政期から既に、政敵や領民を中心に強い反感を買い、晩年には失脚。さらにその死後には、一族須く(すべからく)、その男系の血が絶えるまで軟禁状態に置かれる、という大変悲惨な末路を辿ったことで一般に知られています。

対して今回取材した讃岐には【西嶋八兵衛】(1596年−1680年)という人がおりました。

八兵衛は兼山同様、讃岐国などで灌漑工事を指導した人として知られます。

はて、では一体八兵衛はどのような道を辿ったのでありましょうか。

 そういうわけで今回の「歴探」は、”讃岐の禹王”西嶋八兵衛を追う旅です!

 

今回の歴探は栗林公園からスタート〜

(この日はとにかく暑かった、、、みんな若干おつかれモード?)

はい、突然ですが、今回のメインとも言える大禹謨碑です。

この碑は、当時暴れ川として知られていた香東川の治水にあたった八兵衛が、その成功の願掛けとして埋めたものとされています。現在は保存のために栗林公園内に安置されているのです。

ではこの【大禹謨】とはなんのことでしょうか?

 

”禹”とはこの方

中国の伝説的皇帝であり、古代王朝「夏」の創始者とされる人物で、孔子が編纂したとされる「書経」にもその功績が記されています。

黄河の治水事業を成功させたことから、治水の神として日本でも古くから信仰を集めました。

成る程、八兵衛は一般に土木技術家として知られていますが、他方その再興期にあった「学問」にも通じた人物であると言えるのです。

そう、この「学問」、兼山を語る上でも切っても切れないワードでした。「小学」を中心に儒学に親しんだ兼山、大禹謨碑を沈め、その学問に対する敬虔さを示した八兵衛。そういう二人を分かつものとはなんなのでしょうか。

 

謎は深まるばかり???

 

そんなときには茶屋で休憩ー!

寺尾:「お、はちべエって書いてあるね」

岡田:「あれは、水戸黄門のほうだとおもいますよー」

(うっかり八兵衛な寺尾でした 〜)

 

さて、暫しの栗林散策のあとには、大禹謨碑出土の地へ

香川県立中央高校のグラウンド横、香東川東派川締切と呼ばれる箇所に今では大禹謨碑のレプリカが置かれています。 (レプリカの方が本物っぽい?-参加者談)

続いて八兵衛の屋敷跡、立て看板が一つあるだけでした。

 

さて、今回の歴探はここまで。

うむ、なかなか西嶋八兵衛という人の全体像を把握することは難しそうです。

最後に示唆的なものを書いておこうと思います。

八兵衛の生まれは遠州。17歳のとき、伊勢の藤堂高虎に召し抱えられ、大坂の陣では数々の武勲を挙げたとされています。その後、讃岐に渡ってからの活躍はここまで書いてきた通り。

晩年は生駒家のお家騒動もあり、再び伊勢に戻って、最後は伊賀に隠居、そこで実に85年にわたる長い生涯を閉じます。

治水家としての顔に隠れがちなのが、八兵衛の書家としての姿。その腕前は大変なもので、鎌倉期の書の大家、尊円法親王を彷彿させる筆致であったと、後世に伝えられています。

土木事業、学問、そして書。八兵衛という人は、それらの仕事に対して、実に敬虔に向き合っていたように思えます。禹王碑を祀った態度、それは穏和な常識人西嶋八兵衛という人間を実によく語っているように見えるのです。

八兵衛とほぼ同時代、伊賀のとなり近江には中江藤樹という学者がおりました。戦乱の世が終わり、下克上という言葉を生んだ人々の智慧は、すかさず政治の世界だけでなく、学問の世界にも起こったのです。

藤樹は、後に続く学問上の下克上、謂わば克己劇といっていいものの端緒を開くことになります。徂徠、仁斎、宣長と続く学問のさきわい、それを透徹していたもの、その精神は、やはり八兵衛に垣間見える敬虔さではないでしょうか。

時代のうつろいとそれに対する順応、そして物事に向き合う態度。思想というものを己に克つべくつかうのか、或は政治の道具としてつかうのか、、、

勿論兼山という人間の本当の部分はわかりません。兼山にせよ、八兵衛にせよ、吾々が触れることができるのは、もう殆ど伝説といっていい伝え言それだけです。「歴史をする」ときには、常に其れに対する吾々の態度の方が問われているのでしょう。歴史を考えるという事、それはまた自分自身を考えるという事に他ないのでは。

八兵衛と兼山、今回の旅は、歴史そのものと向き合う旅であったのかもしれませんね。

というわけで、最後は歴史っぽくお城(玉藻城)でパシャリ!!

6月10日、兼山の足跡を追おうということで、春野へいってきました〜

今回案内役をしてくださったのは元嶺高の畠中先生!(ありがとうございました!!)

まずは、行当の切抜きへ。水を遠くまで運ぶためにこの傾斜を利用しています。

行当のきりぬきの説明と碑文。 みんなで苦労しながら判読Timeです!

 

仁淀川の治水。成る程このスケールを見れば、それが如何に悲願であったかが分かります。

 

吾々が普段なにげなく眺めているこのような景色も実は途方もない苦労の跡であったりするのです。

 

 

さて、ところ変わって新川の落とし。なんと遍路道でもあったとか。
先生の趣味で話が逸れるのも歴探の魅力。大師堂や五輪塔の解説はさすが畠中先生です。

 

 

新川の水路幅は他より少しばかり広い。そう、ここは用水路としてだけではなく、水運のためにも使われていたとか。

 

 

恵比寿神社に白塗りの土蔵。町屋風の趣きある街並みは、かつてこの土地の謳歌したであろう繁栄を今に色濃く遺している。これも勿論兼山の事業あってこそなのです。

 

 

最後は龍馬像の前でパシャリ。幕末の龍馬、そして、その後の発展に至るまでの土佐の学問の道。兼山の築き上げたその功績に触れ、その一端を垣間見ることのできた一日でした!

歴探です。平成28年3月23日に、南国市・高知市の史跡巡検に行ってきました。その様子をご覧ください。

 

旧石器時代の奥谷南遺跡です

長畝古墳のある公園です

高知では珍しい中期の古墳の石室です  

次は小蓮古墳への道を登る登る

あれが古墳の入り口です

古墳の中は立ち入り禁止

   

外からとった古墳の石室です
後期の古墳の横穴式石室です

岡豊城の詰の段です
建物の礎石が残っています

 

国分寺に来ました

寺の中庭には

古代の礎石が置かれています

やよい広場
田村遺跡を復元した公園です
竪穴住居の中にいます 

 

田村城館の土塁の上です
室町時代の土佐の守護代 細川氏
の屋敷を囲んでいた土塁が東側だ
け残っています

高知県埋蔵文化財センターでは
田村遺跡などで出土した土器などが
展示されていました

 

朝倉古墳です 

石室の中も見学しました 

 

坂本龍馬が登って高知の城下を眺めて
いた八畳岩です 

本日最後の目標は山の中
 

   

登る登る 

まだ登る 

 

やっと着いた

初平ヶ岩屋洞窟遺跡の中です
縄文・弥生時代の洞窟遺跡です 

 

歴探(今年1月に発足した新しい自主活動組織)です。報告が遅くなりましたが、平成28年2月11日に高田遺跡現地説明会に行ってきました。


高田遺跡発掘調査現地説明会にやってきました。


発掘調査の説明を聞いています。


出土品の説明を聞いています。


遺構の説明を聞いています


説明会まで時間があったので三叉を見に行きました。
三叉は野中兼山が作った用水路を3本の用水路に分けた施設です。


戦時中に戦闘機を格納していた掩体壕です。


空襲によって破壊された上岡八幡宮の鳥居です。